講演録 / 新聞・雑誌クリッピング

2006年05月29日
文藝春秋「私の柔道外交 山下泰裕」

文藝春秋 2006年5月特別号掲載 私の柔道外交 山下泰裕(国際柔道連盟理事)

このところ私は、国際柔道連盟の仕事などで、年間100日ぐらいは日本を離れて世界を歩いている。外国人との交流も多いが、彼らと話せば話すほど、「日本 は世界の人に正しく理解されていないのではないか」という気持ちを抱いてしまう。日本のことをもっと知ってほしい。そのために私は、柔道を通して国際交流 を進めてきた。

柔道では 「レイ(礼)」、「ハジメ(始め)」、「ヒキワケ(引き分け)」など、試合はすべて日本語で進められる。外国人は最初、まったく意味が理解でき ないだろうが、柔道を続けていくうちに、次第に言葉の意味に興味が出てくる。そこから更に日本語そのものや日本文化に興味を抱く人も少なくないという。

それに、柔道は激しい競技だが、互いに組んで戦った者同士は、ある種の親近感を抱くことができる。柔道の創始者である嘉納治五郎師範は、「自他共栄」と おっしゃった。戦う相手は敵ではない。それが柔道の精神なのだ。だから他では得られない関係が生まれるのだろう。ロシアのプーチン大統領との交流を通じ て、私はその点の確信を深めてきた。

プーチン大統領は柔道の有段者で、「柔道はスポーツではなく、哲学だ」と話す方だ。これまでに何度かお目にかかっているが、昨年の11月に来日された折、 私は恩師から頂いた嘉納師範直筆の「自他共栄」という書を大統領に贈呈した。大統領は、「これは本物ですか。それともコピーですか」とお尋ねになったが、 むろん本物である。非常に喜んでいただき、ロシアへ招待された。

そこでシドニー五輪金メダリストの井上康生選手を連れ、昨年の12月に大統領の故郷、サンクトペテルブルクへ行ってきた。KGB出身ということもあって か、一般的には冷徹なイメージだが、私の知っているプーチン大統領は穏やかで、温かな血の通った人であり、表情も非常に豊かである。故郷の柔道仲間は、 「大統領は昔からちっとも変わっていない」 と、声を揃える。柔道を通して培った友情は立場を超えて変わらないものなのだろう。食事会の時、店のシェフと も気さくに言葉を交わし、卓を囲んだ我我に気をつかうプーチン大統領の姿をみて、井上選手もいっぺんにその人柄に魅せられてしまったようだ。

同じ12月末、福岡で中学生の国際柔道大会が開かれたのだが、そこにロシアの北オセチア共和国、ベスラン柔道クラブの7人の選手を招待した。2004年9 月、テロリストがベスランの学校を占拠して、大勢の子どもを含む三百人以上の死者が出た事件は記憶に新しい。参加した少年の一人は人質となって、手榴弾で 両手両足を火傷する重傷を負った。もう一人は母と妹を事件で失っている。大会には井上選手が激励にいき、彼らも喜んでくれたという。プーチン大統領の側近 の働きかけもあって、テロで傷ついた少年たちを励ます柔道交流の模様はロシア全土にテレビで放送された。こうした草の根の交流によって、ロシアの対日観が 少しでも良くなるとよいのだが。

ロシアだけではない。アテネ五輪の前に、イラクの選手を日本に招いて五輪へ向けた強化練習の支援をしたこともあるし、いまは北京五輪に向けて中国男子柔道 チームの強化にも微力ながら携わっている。勤務先の東海大学そばに学生向けのアパートを借りて、年間で四、五ケ月の合宿が可能な体制を整えた。現在、日中 関係は必ずしも良好ではないが、いくつかの企業の援助もあって北京五輪までこの支援は続く。外務省から声がかかり、日本人も多く住む中国の青島に柔場を作 る計画にも加わっている。無償支援なので援助金の上限は一千万円。豪華な施設ができるわけではないが、日本と中国の子どもが一緒に柔道をすることで、色い ろな交流がスタートするだろう。将来的には、そこを拠点に華道や茶道など他の分野でも交流が始まればいい。

こうした活動を今後さらに進めるため、私はNPO法人「柔道教育ソリダリティ」を設立した。「ソリダリティ」は日本語で「連帯」を意味する。ポーランドのワレサ議長が使ってから人口に膾炙した言葉だという。

私は聖人君子でもないし、未熟な点も多い男だ。できるのは柔道だけかもしれない。しかし、その柔道を通して多くの人と交流していくことが、東海大の創始者、松前重義先生はじめこれまで応援してくれた方々への恩返しだと信じている。

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