講演録 / 新聞・雑誌クリッピング

2006年01月18日
地球村通信 新春スペシャル対談 山下泰裕×ネットワーク『地球村』代表 高木善之



1984年のロサンゼルス五輪・無差別級で金メダルを獲得、その年の10月には国民栄誉賞を受賞。その山下さんが、「柔道を通した人づくり」をめざして「柔道ルネッサンス」を進めています。

「勝負の世界から、非対立の世界へ」

高木 最初の出会いは、たしかフナイオープンの「転生と地球」の講演会でしたね。97年くらいでしたか。

山下 その前年のフナイオープンのカセットテープを買って聴いてみたのが最初です。ダイオキシンや電磁波、オゾン層破壊、地球温暖化など初めて聴く話ばか りで、すごいショックを受けました。テープを何回も聴いて、こんな凄い話なら実際に聴いてみようと、翌年のフナイオープンへ出かけていきました。講演の 後、握手をしていただいたのですが、覚えておられないでしょうね。

高木 いえ、もちろん覚えております。あの時、前の方に座って熱心に聴いておられました。並んでいらっしゃるときから気がついていましたよ。

山下 そうでしたか…。8年くらい前というのは、私自身にとっても転換期でした。自分が目標に到達することで、他の誰かが傷ついたり悲しんだりするのが嫌 になって、勝負の世界から離れたいと思い始めていました。2000年のオリンピックが終わったら一歩退こうと思っていた矢先に、高木さんと出会いました。

高木 大切な時期だったのですね。

山下 当時、日本武道館で行われる全日本選手権では、うちの選手たちが全く活躍しないんですよ。福岡で行われる世界選手権日本代表選考会では活躍するの に、なぜか日本草道館ではだめ。日本武道館には、私に負けた人たちの怨念があるのではないかと思うくらいでした。ですから、教え子井上康生が全日本で優勝 したときは、祝賀会で涙が止まらなくて…。それほどうれしかった。その時に自分は思ったんです。私が対戦相手を叩きのめしたことは事実ですが、それが10 年、20年経ったときに、「山下に倒された」という恨みではなく、「あの山下と戦った」と誇りに思ってもらえるような、そんな生き方を自分がしていけば、 もし怨念があったとしても、それが自然に消えていくのではないかと。そんな時に高木さんに出会って「自分がめざす道が誰も傷つけず、多くの人にとって喜び となる」そんな活動をしたいと思うようになりました。それまでとことん勝負にこだわってきた私がそんなことを思うようになったというのは、ものすごい変化 なんです。そして戦う相手は敵じゃないんだ、共に学びあう仲間なんだと思い始めました。試合をして敗れても、優勝した相手を、そしてその指導者を「努力が 実ってよかったなあ。すばらしかったなあ。おめでとう」と言えるように変わりました。

高木 私もコンクールという勝負の世界にいましたからよくわかります。交通事故の前「何としても勝とう」とがんばっていたころは絶対に勝てなかったのに、 事故後「楽しく歌おう。自分たちの楽しい歌を聴いてもらおう」と意識が変わったときに、トップになれました。そしてそのとき、私に駆け寄って抱きしめてく れたのは、それまでどうしても勝てなかったトップの指揮者、浅井敬重さんでした。「高木さん、よく復帰した!本当にすばらしかった!」と涙を流して喜んで くれました。

山下 事故の前後で、何が一番変わったのですか。

高木 勝ち負けや競争の世界から脱却したことですね。それまでは、「自分が正しい」と思って指導していましたが、復帰後は「みんなが幸せであることが、 もっとも大切」と思えるようになりました。自分だけの幸せは本当の幸せではない。みんなが幸せでなければ、本当の幸せではないと気づいたのです。その発見 が、『地球村』の原点です。

「柔道を通した人づくり・人間教育を」

高木 柔道ルネッサンスのことをお伺いしたいのですが、柔道会場の清掃を始めたのでしたね。

山下 柔道ルネッサンスがスタートしたのは2001年の秋ですが、98年からゴミ拾いをしていました。その頃、ペットボトルやテーピングテープなど、とに かく会場が汚かったんですよ。せめて自分たちの周りだけでもきれいにしようと拾っていたのですが、やはり会場はとても汚い。すると、現全日本男子柔道監督 の斉藤仁が私に「先輩、やっちゃいますか?」というのです。そこで「よし、やっちゃおう」と、自分たちが使った場所だけではなく、すべての会場のゴミを拾 うようになりました。500畳の会場も、20人でやれば20分くらいでかなりきれいになるんです。そこから日本チームは、会場清掃をすることが恒例になり ました。

高木 なるほど。そういう活動が、柔道ルネッサンスへつながっていったのですね。

山下 私は4、5年前から、日本の柔道界のあり方、マナーの低下について発言していたのですが、その声を後押ししてくれる出来事が2001年に起きまし た。全柔連の嘉納行光会長が、年頭の挨拶として「21世紀、我々がめざすのは、柔道を通した人づくりだ」とおっしやいまして、雑誌「柔道」の巻頭言にもそ のことを書かれました。トップがそうした方向性を示すというのは大きいんです。私はものすごい後ろ盾をもらったように思いました。そこから、柔道の創始 者・嘉納治五郎師範の理想である「柔道を通した人づくり、人間教育をしていこう」と、柔道ルネッサンスは柔道界に向けて発信を始めました。私も、大会のと きに選手や指導者に呼びかけをしています。自己反省も踏まえながら「自分は人前でこんなことがいえる立場ではありませんが、柔道界はこうあるべきじゃない でしょうか」と、非対立で伝えるように心がけています。

「柔道から世界平和の実現を」

高木 海外との交流は、柔道ルネッサンスとは別な活動になるのですか。

山下 別な組織になります。組織といっても3人だけなのですが。柔道を通して日本の心を海外に伝えることは、日本の理解にもつながります。国際交流や平和 のために柔道が役に立つのです。こうした考え方を私が持つようになったのは、東海大学の創設者・松前重義先生の「柔道を通して世界平和に貢献してほしい」 という教えと、嘉納治五郎師範の「自他共栄」の精神を学んだことが大きいと思います。

高木 ロシアのプーチン大統領も、すぐれた柔道家だそうですね。

山下 2003年にNHKの番組に出演して「柔道はスポーツじゃない、哲学だ。柔道がなかったら今の私はない。柔道を通して日本に非常に関心を持っている」と発言されていました。一国の大統領にそこまでいわせる力があるのだと驚きました。

高木 アテネ・オリンピックの時の、イラクへの柔道着支援も、山下さんが動かれたのでしたね。

山下 「柔道着と畳がないので支援してほしい」という要請が、イラクの柔道連盟から国際柔道連盟を通して私のところへ来ました。そこで、外務省と講道館へ 相談に行って、イラクに支援することになりました。そしてアテネ五輸に参加するイラク選手たちを日本に招き、準備してもらうこともできました。

高木 中国の柔道の技術向上にも協力しているそうですね。

山下 はい。中国チームから頼まれて、男子選手を日本に受け入れて面倒を見ることにしました。柔道を通した交流から、両国がもっと埋解し合えるといいなと考えています。

高木 そういうことは、周囲から理解されていますか。

山下 自国のライバルを育てようというのですから、一部には「山下は何をやってるんだ」という声もありますが、大筋は「ぜひやりなさい」と言ってくれま す。勝負に勝つことは大事なことですが、柔道に携わった人が幸せになることの方が大きな喜びです。そこには、『地球村』の非対立の精神が大きく影響してい ます。

高木 そう言っていただけるとうれしいですね。

山下 本当に、高木さんとの出会いは大きいです。自分のこれからの生き方、21世紀の生き方を考え始めたときに高木さんに出会い、ショックと感動を呼び起 こしていただきました。そして、みんなの幸せを求める生き方が、自分の生き方になりました。自分がこういう生き方をめざし、こういう活動をするようになる とは、想像もしていなかったことです。おそらく、高木さんがめざしているものと最終的には同じなのではないかという気がしています。高木さんに出会ってい なかったら、今の自分はないと思います。

高木 光栄です。ぜひ、ワークショップにもご参加ください。

山下 ぜひ学ばせてください。「自分の行動が全ての人を傷つけない」というようなことはできないのかもしれませんが、多くの人の喜びになることは、必ずで きると思います。こうした考え方は、高木さんとの出会いで学んだことです。ただ、なかなか自分勝手な価値観などの「心のモノサシ」は抜けません。やっぱり 自分がかわいいんです。でも、少しずつでも成長していく自分でありたいと思っています。

高木 修行においでください。お待ちしております。そして、どうぞ、今後とも、同じ夢の実現に向けて協力していきましょう。今日はお話いただいて、ありがとうございました。

山下 こちらこそ、ありがとうございました。

大会にはロシア、ドイツ、韓国、米国、香港の海外招待6チーム、日本の59チーム(中学校)の計65チームが出場。練成会や講習会もあり、27日には5人制の団体戦が行われる。

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