| 最近の雑誌・新聞インタビューダイジェスト
私が最近考えていることを理解して頂くためには、最近あったいろいろなマスコミ関係の人とのインタビュー記事を読んで頂くのが早いと思います。読んで頂いて、私の考えに対して、様々なご意見を頂きたいと思います。 |
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「OLYMPIAN」 (2001年1月号) 記事は、ライターの木村秀和さんが書かれたもので、8年間に及ぶヘッドコーチとしての活動をレポートしていただいたみたいな形になっています。これをご覧いただいて、現在指導者の立場にある人の参考になればいいな、と思っています。
名選手といわれる人は天賦の才(体力、体格、運動神経など)に恵まれた人が多い。凡庸な選手がしないようなトレーニングでレベルアップした経験を持つため、それらの選手の気持ちや能力が理解できず、結果 として指導や指揮で失敗する。一方、名選手であっても自分と相手を客観的に見られる指導者は、そんな失敗も少ない。その典型が山下のケースだ。 山下という不世出とも言われる選手がいかにして名監督になれたのか。好選手がそろっていた、内外での練習が実を結んだなどの要因はある。しかし、その最大の要因として、時代背景を考えなければならないだろう。 山下が全日本のヘッドコーチ(監督)を引き受けたのは1992年のバルセロナオリンピックの直後10月2日だった。講道館の合宿のとき「大変な役を押しつけられましたね」と言う記者の質問に35歳の山下は「いや自分から喜んで引き受けたんです。何をやるにも若くエネルギーがあるうちに、と思いますから」と答えた。山下にとっては最初から指導者として覚悟を決めたヘッドコーチ受任だった。 ヘッドコーチを引き受けたのは、自分が現役のときに経験した強化の方法やトレーニングのいくつかは、もう時代に合わなくなってきているということを強く認識したからだろう。それ故に、自分だったらこうする、ということが明確に心中にあったのだろう。以後、山下が8年間に行った施策、アイディアは従来のやり方を一変するものだった。 山下がヘッドコーチになった92年当時、日本の柔道界は長期の低迷期に入る瀬戸際にあった。バルセロナオリンピックでは金メダル2個を死守したものの、その前の88年のソウル大会は金1個。世界の中で日本がダントツに強いという時代でもなくなりつつあった。 勝つためには、どうすればいいのか______。この一点に絞って考えた時に、山下は旧来の日本のやり方を変えざるを得なかった。トレーニングの方法、選手の意識、選手の選抜の方法などなど。精励刻苦の長時間練習を廃止し、短時間集中型に徹した。また、スポーツ医科学や栄養の摂取に気を配る指導や、それらの専門家も活用した。さらに、海外で気後れしないようにと国際試合への参加や海外での強化合宿を大幅に増やした。情報の収集に力を入れ、彼我の科学的な分析を精力的に行った。つまり、山下は時代を正確に認識し、それに沿った科学と合理を軸とする指導と強化に取り組み始めたのだ。 山下が時代を正確に認識できたのは、彼の現役時代の経験に基づくものが大いに関連していた。山下が最ものっていた現役のころは、柔道界にもやっとスポーツ科学・医学・生理学などが入り込み、伝統的な稽古からそれらの要素を取り入れたトレーニングが盛んになり始めていた。それまではウェイトトレーニングはやらなかった柔道選手が、このころから機器を使ってのトレーニングや走り込みなどに取り組むようになってきた。 山下自身、東海大学スポーツ医科学研究所で学び、コンディションの整え方や筋力トレーニング、栄養バランスの重要性などを理解していた。海外への遠征も数多くこなし、身をもって諸外国の近代トレーニング方も学んでいた。そうした経験から、おのずと、柔道のトレーニングと科学と合理がまず大切だとの認識を持つようになった。 底流に旧来の日本のやり方はあるものの、新しいスポーツトレーニングの波がドンドン大きくなっていく時代だった。 山下の年代を境に、日本の柔道選手は精神主義的な稽古をした従来型、近代スポーツ医学の洗礼を受け、その影響を強く受けた人たちと分かれ始める。山下は近代的なトレーニング理論を身に付け、それが日本の柔道を強くするために必要な方法であるとの確信を持っていた。新しい時代が、山下を育てたのだった。 合理精神、アイディアで 柔道を近代化させた 山下の最大の"ヒット"は、強化選手のサポート体制を完璧に作ったことだ。栄養、メンタルトレーニング、ウェイトトレーニングなどを専門家チームに加え、減量 なども体力を極力消耗しないようなやり方を専門家に依頼した。合宿時の食事も1日2回のという従来の"どか食い"を改め、3回にした。走力テスト、心理的競技能力診断なども常時取り入れ、選手の心身のコンディションを把握した。長時間の練習はなくなり午前、午後に短時間に集中させた。専門家のサポートスタッフはアトランタ大会、シドニー大会の勝利の切り札になった。 海外の合宿・遠征が従来の3、4倍になったことも山下になってからだった。例えば、98年は1、2、6、7、9月に試合や合宿で役10週間の海外練習が行われた。従来、遠征には日本食を持っていくが当たり前だったが、山下はチームとしての携行をやめた。「海外に行ったらそこで食べる。町の食事も一人で物怖じせずにやれ、それが試合でビビらない心を作る」と語っていた。スポーツ医科学のサポート体制と海外の合宿は、勝つための2本柱だった。 山下が合理精神の持ち主で有ることは、青色柔道着の導入について「見慣れたら何の違和感もない」と、まだカラー柔道着に日本が反対している時点で発言していることでも分かる。また「柔道は武道的要素の強いスポーツ」「学閥に関係なく柔道が好きという人なら、どんどん意見言ってもらいたい」ということばの中にもそのことがよく表れている。 山下がヘッドコーチになって実現したものの一つに、異種競技との合宿がある。93年1月には日大の相撲部と合宿練習をした。この中で、レスリングの飛行機投げなどの技を学んだ。筑波大学では故ジャンボ鶴田氏からレスリングのタックルを教わり、95年の和歌山合宿ではバスケットボール、水泳、サッカーなども練習メニューにのぼった。 選手選考の際、従来の減点方式から加点方式にしたのも山下だった。 「今までは、海外の試合などで負けたら減点されていた。これでは積極的に海外の試合に出ようという選手がいなくなる。これからは出場して勝てば加点しようという考えだ。だから、出なくともいい点がもらえないよ」それまで4月に行われていた講道館杯を94年からは11、12月に移行されたのも山下だった。これによって講道館杯〜翌年春のヨーロッパ大会_〜4月の全日本体重別 という選手選考の流れが定着した。 マスメディアへの働きかけで柔道の宣伝、自分たちがやろうとしていることを理解してもらおうとしたのも、新しい柔道の記事がずいぶんと紙上に増えた。これなどは、アイディアマン山下の真骨頂ではないか。 山下は、選手に意識改革を迫った。「強化選手は意識の上ではプロであってほしい。努力したがダメでした、ではいけない」と言い、96年5月のヨーロッパ合宿に寄せて「君たちは選ばれて金メダルを争う立場にいる。挑戦したくてもできない者もいる。夢を叶えられる立場に立っているのだから柔道人生のすべてを掛けてほしい」と語った。 80年のモスクワ・オリンピックは、旧ソ連のアフガニスタン侵攻に対する反発から、多くの西側諸国が大会をボイコット、日本も足並みをそろえた。山下は、当時の代表に選ばれながら意識の低い選手には厳しかった。93年5月の上海東アジア選手権のときには「選手は金メダルを取るためにどうか、という観点で見ている」と語った。「闘志なき者はいらない」とも語った。 その一方、弱者には優しかった。93年5月には骨髄バンクのドナー登録をしている。パラリンピックの柔道選手との合同練習も山下の考えでアトランタ大会代表、シドニー大会代表とともに行われた。「障害者というのは、神様が我々に優しさと思いやりを忘れさせないためにくださったプレゼントだと聞いたことがあります。私はこの言葉が好きですね」と語っている。この優しさは山下の下で過ごした4人のヘッドコーチも異口同音に言う。斎藤仁コーチ(国士舘大教)などは「山下ヘッドは自分たちに遠慮し過ぎている」と酔っぱらって絡んだほどだ。でも、この優しさがあればこそコーチたちの団結と連帯感が培われ、目的に向かって力を発揮した。 山下の8年間は終わった。名選手は名監督になり、次のステップへの足を踏み出そうとしている。山下を補佐したコーチたちもそれぞれの大学に帰っていった。みんな、山下とともに戦った8年間を「有意義だった」と語っている。 全員が大学の教員。山下を最年長にして最年少の斎藤コーチまでわずか3年しか違わない年齢。西田孝宏コーチ(山梨学院大教)を除いて全員が84年ロサンゼルス・オリンピックで戦った仲間と共通 項も多い。端から見ていてもコーチたちは山下を中心にして、実に仲が良かった。大番頭格の西田、理論派の高野裕光(福岡大教)、冷静でユーモアの細川伸二(天理大教)、若さと馬力の斎藤と、それぞれが個性を持ち、山下をよく補佐した。山下の人徳のなせる業と言えようか。 大役を終えて山下は、現場を離れて男子強化部長に就任した。渉外などの仕事が中心になる立場だが、8年間の活動は、多いに役に立つはずだ。名監督が名行政マンになることに期待しよう。(文中敬称略) |
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記事には斎藤新ヘッドコーチと、山下のツーショットの写真が添えられていました。これをご覧になって頂くと、私のことがもっと分かっていただけると思います。少々長いのですが、全文を掲載しました。 |
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