新情報 VOL.90
社団法人 新情報センター インタビュー
ロサンゼルスオリンピック金メダリスト 山下泰裕氏(東海大学教授)に聞く


日本の心を世界に

 これまで小誌では社会調査に関する専門的な記事を掲載していましたが、今後はその殻を破って広く「知ること・調べること」に関する話を紹介していきたいと思います。
 これまで小誌では社会調査に関する専門的な記事を掲載していましたが、今後はその殻を破って広く「知ること・調べること」に関する話を紹介していきたいと思います。
 今回はロサンゼルスオリンピックの柔道で金メダルを獲得した山下泰裕氏にお話をお聞きしました。
 聞き手は編集担当の氏家豊です。

――― 今から20年前(1984年、昭和59年)、先生はロサンゼルスオリンピックで金メダルを獲得しましたが、実はその4年前、これも金メダルが有力視されていたモスクワオリンピックがありました。しかし、この大会には日本が参加しませんでした。前年(1979年、昭和54年)の12月にソ連がアフガニスタンへ侵攻したことに対する西側の非難の中で、日本も不参加を決定したためです。このとき、東海大学の学生だった当時の山下選手はどのようなお気持ちだったのでしょうか。

山 下: 一個人の思いとしては極めて残念だったです。断腸の思いでした。

――― 当時日本では、オリンピックに政治を持ち込むべきではないので是非参加すべきだという意見と、ソ連の行為は決して許されるべきものではないので非難の意味をこめてボイコットすべきだという意見に二分されていました。そこで新聞社などマスコミを中心にいくつか世論調査(参考1)も行われました。
 ある調査(参考2)によると、ソ連のアフガン侵攻後(1980.1)は「参加した方がよい」が50%強、「ボイコットした方がよい」が20%強だったんですね。ところが、政府が事実上の不参加を決めた後の調査では「参加」が35%強、「不参加」が40%弱と逆転しています。この2回目の結果は、当然、政府の方針が反映されたものと見ることができると思いますが、このようにして世論もモスクワオリンピックに対して熱が冷めていったように思われます。しかし、さらにレークプラシッド冬季五輪終了後には、オリンピック熱の再生で「参加」が約50%まで上昇しています。このように世論はまさに揺れていたわけです。

山 下: この調査は何人くらいの人を対象に行われたのですか。

――― 600人です。

山 下: 600人くらいだとこの「参加」の50%はどれくらいの誤差がありますか。

――― 5%くらいですね。

山 下: ということば、1回目の調査でほ「参加」は多くても6割には届かず、4人にひとりは「ボイコットした方がよい」という意見だったことにもなるわけですね。

――― そのとおりです。

山 下: 今思うと、私とは反対の意見を持つ人がこんなにいたのかという感じですね。

――― 世論は確かに揺れていたのですが、政府は2月のはじめには既に原則的不参加を固めていたといわれています。これは今日的問題でもあるんですが、このようなオリンピックなどの世界的なスポーツの大会が政治的に影響を受けることに対して、先生はどのようにお考えですか。

山 下: 私は先ほど、当時の−選手として、一個人の思いとしては極めて残念だったと言いましたが、しかしそれは一個人の気持ちで、われわれが認識しなければいけないのは、政治の国民生活に与える影響というものは極めて大きいということです。つまり、よく見てみますとすべての事柄に対して政治がかかわっているんですね。スポーツも例外ではありません。政治が向く方向によって国民の生活がやりやすくなったりやりにくくなったり、企業にとっては死活問題にもなるわけです。しかし全員にとってプラスになることも、全員にとってマイナスになることもあり得ないことだと思います。政府はこのような場合、国益を考慮して判断すると言いますね。私は国益というのは国民の利益だと思っています。国民一人一人が国を作っていると思いますから。そこで、日本政府が日本のより大きな国益を考えて、オリンピックへの参加を断念するということばあり得ると思います。

――― ということは、政府がオリンピック不参加を決めたことを容認するということですか。

山 下: やむを得なかったのかなと思います。ただ、やり方というものがある。当時の政府のやり方は残念至極です。

――― それはどういうことでしょうか。

山 下: アメリカは当時カーター大統領がホワイトハウスに全選手とコーチを招いて、アメリカがなぜこのモスクワオリンピックをボイコットしなければいけないかを説明しました。そして、「皆さんがこのオリンピックに出場するということがどういう意味を持っているのか、ボイコットすることが皆さんの努力をいかに踏みにじることになるか私はよく分かっている。しかし、アメリカの国益のために私はボイコットという手段を取らざるを得ない」と説明し了解を得たんです。
 そういう説明があったときに、そんなわがままを言うなと反論できますか。そのように、より大きな国益を守るために、と一国の長が判断したということです。

――― 日本政府にはそのような説明がなかったんですね。

 ここで事実経過を確認してみます。ソ連のアフガン侵攻が79年12月27日。その後10日も経たないうちに(80.1.4)アメリカがモスクワ五輪ボイコットを提唱する。その約1ヵ月後(80.2.1)に日本政府は原則的不参加を固める。政府の最終見解としてJOCに大会不参加を伝えたのが4月末(80.4.25)で、その1ヵ月後、JOCは総会で異例の採決の結果不参加が決定される。因みに採決は29対13であった。とまあ、こんな流れだったわけですが。
 政府も最終決定に辿り着くまでかなり時間をかけていますね。この間、やはりスポーツ界や関係諸団体からの参加要請の声がかなりあったのではないかと思われます。しかし、結果はその声に応えることができなかったわけですね。

山 下: スポーツ界は国の意向を無視しては動けないところがありますから、例えば補助金を頼りにしているところは自分の意見をなかなか言いにくかったと思います。

――― なるほど、そのようなプレシャーがあったのかも知れませんね。

山 下: いずれにしても、国として誠意を持って対応して欲しかったと思いますが、そういう思いを味わった者としては、次の世代にそのようなことが二度と起きないようにすることが大切だと今は思っています。そのためには参加した方が国益なのか参加しない方が国益なのかを関係者に説明ができ、選手の立場や思いをより多くの人に理解してもらえるようにしなければなりません。つまり、スポーツの持つ社会的意義をもっとアピールしていくべきで、そういった面をわれわれがどれだけ認識しているか。そういう意味でいうと、できるだけ政治による影響を受けない、むしろスポーツが政治に影響を与えるというくらいまで高める必要があると思うのです。もちろん理想論ですが、国際的な相互理解をはかるためにも、そして政治の影響を受けないためにも、スポーツ関係者がそこまでスポーツの社会的存在意義というものを認識していく必要があると思います。

――― ところで、先日新聞などで報道されていましたが、イラクに柔道着と畳を贈られたそうですね。

山 下: イラク柔道連盟から国際柔道連盟の教育・コーチング理事である私にそのような依頼がありましたので、私が日本柔道連盟と外務省に働きかけて実現したわけです。150着のうち100着はリサイクルですが、外務省で目録を受け取ったイラク柔道連盟会長のアル・ムーサウィー氏からは、日本の皆さんに頂いたと理解しておりますと言う御礼の言葉がありました。

――― イラクはまだ社会情勢が落ち着かないようですが、スポーツをする余裕はあるんでしょうか。

山 下: イラクで畳も柔道着もないのに一生懸命柔道に励んでいる人たちがいると聞いています。日本も戦後、食べるものがない時期に柔道をはじめとするスポーツでがんばっておられる方がたくさんいたと聞いています。貧しい中でもそういう取り組みや苦労があるはずだし、そういう活躍が戦後の明るい話題のない国民を元気付けたのだと思います。厳しい状況だからこそそういうことか大事なのではないでしょうか。それとマスコミの人から今後イラクに対して他にどのような支援をしたいと思っているのかと聞かれましたが、むしろ私としてはイラク以外にも貧しい、大変な状況にある国に支援を広げたいという気持ちです。イラクのように日本に関係がある国だけではなく、同じ人間に対してしてあげられることをするという方向に僅かでも進んでもらえばいいなと思っていますし、これからも日本人の中にそのような他の国の人を思う気持ちが育つ方が大事だと思いますね。

――― イラクのように情勢不安や政治的な理由で柔道の普及もままならないというところは多いのでしょうか。

山 下: 情勢不安でというよりも、一番の問題は貧困だと思います。柔道は比較的コストがかからないスポーツではあるけれど、それでも畳や柔道着が必要です。安い柔道着一着5千円くらいで買えますが、それすら1か月分の給料だというところが世界で半分くらいあるんです。情勢不安や政治的な理由も柔道の普及を妨げていることは事実ですが、貧しいためにやりたいことができないでいるという人たちのためには、われわれも手の施しようがあるのです。

――― 先生が大きな心で国際貢献をされていることがよく分かります。

山 下: いや、国際貢献というとそうではないと思います。柔道の心は日本の心と通じる。柔道においては技術指導だけではなくその柔道の心を世界に広げていきたいと思っています。そうすることによって日本の心というものを世界の方々に広く理解してもらいたい。一方的に押し付けるのではなく異文化交流という気持ちで、そして指導する立場でも同等の気持ちで接するというそういう気持ちになれれば、日本に対して親しみを持つことにつながるのではないか。あげるだけなら貢献だけど、そうして日本を理解してもらって、日本や日本人に対する信頼を得ていく活動が大事だと思っています。

――― わかりました。国際貢献ではなく国際交流ですね。

山 下: そうです。

――― ここで、また他の世論調査の結果をご紹介したいと思います。

 昨今、国民のスポーツに対する関心は非常に高くなっています。この世論調査の結果(参考3)をみると国民の7割か何らかのスポーツを行っています。そして、どのような運動・スポーツを行っているかを聞いたところ、「柔道、剣道」と答えた人は全体で0.8%という結果になっています。非常に乱暴な推計をしますと、これは少なくても30万人くらいになり、そのうち「柔道」が半分くらいだとすると15万人くらいということになるのですが、日本の柔道人口は実際のところどれくらいあるのでしょうか。

山 下: 柔道人口というのは分かりませんね。ただ、ひとつの目安になるかと思いますか、日本柔道連盟が主催する柔道大会に出場できる登録者の数は約20万人程度です。

――― そうしますと、この調査結果もまんざらではないというところでしょうか。ところで、これはまた別の調査結果(参考4)で10代の子供の運動・スポーツの状況を調べたものです。
 子供たちの体力低下についてはここのところ毎年のように報告されていますか、10代の青少年の運動・スポーツの実施状況をみますと、行なっている子と行なわない子の2極化がみられます。先生は「運動しない子供たち」についてどのように感じていらっしゃいますか。

山 下: これは何も子供たちだけにあてはまることではありませんが、人は頭でっかちじゃだめだし、スポーツばっかりでもだめだし、バランスを持って、主体性を持って、他の人たちと支え合いながら生きていくということが大切でしょうね。知的な面は今の教育で十分高めることが期待できる。そうでない部分においてスポーツが担える部分が多いと思います。今の世の中、子供たちもストレスが溜まります。他の人とのコミュニケーションをとることが難しくなっているようですが、汗をかくことによって爽快感があるばかりでなく、相手を思いやること、ともに力を合わせること、決まりを守ること、我慢すること、こういった日常の生活の中では押し付けであるようなこともスポーツではスムーズにできる。人間らしく生き生きと生きていくためにはスポーツは非常に有効なのではないでしょうか。ただ、私がこの調査結果を見て残念に思うことは、「非実施者」も問題だが、燃えつき症候群か心配な「週7回以上」も問題だということです。子供たちのスポーツライフはこのような谷型ではなく、この反対の山型の姿になるのか望ましいと思います。

――― 最後に、先生か今後目標としていることはどのようなことですか。

山 下: 選手の強化以外では、目標にしていることが二つあります。ひとつは柔道を通した人間教育、これをいかに実践していくか。それともうひとつは国際柔道連盟の理事として世界の恵まれない国に対していかに支援を行っていくか。利用できる組織や機関をフルに利用して進めていきたいと思っています。そして、それを通して目指すことは日本という国を理解してもらいたい、そのような国々と日本を結ぶ架け橋になりたいということです。しかし、これは一人ではできませんから、できるだけ多くの組織や機関を巻き込んで進めていきたい。志半ばで倒れてもそれを引き継いでくれる次の世代が育つような土壌を作っていくことも私の務めだと思っています。

――― 先生が倒れるというのはなかなか想像できないことですが。どうか今後もがんばってください。



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